東京大学の二次試験が終わった帰り道。
娘は突然立ち止まり、何も言わずに涙をポロポロ流しました。
そんな姿を見たのは、後にも先にもこのときだけでした。
東京大学二次試験
東京大学の一般選抜(前期日程)は、例年2月25日・26日に実施されます。
国立大学の一般選抜は、前期日程と後期日程があります。
しかし東京大学は2016年度入試から後期日程を廃止しているため、一般選抜でのチャンスは実質1回だけです。
2月25日一日目
その日は朝から雨が降っていました。
大学へ向かう道は非常に混雑しており、雨のせいもあって人の流れはゆっくりでした。
道には受験生や保護者らしき人たちの長い列ができていました。大学側から特に案内が出ているようには見えませんでしたが、誰かが作った列にみんなが自然と並んでいました。
私は正直、「その列は本当に東大へ向かう列なのだろうか」と不思議に思いました。案内もないまま列に並ぶのは、私には少し怖かったのです。
しかし周りの受験生や保護者の方々は、騒がず、割り込まず、文句を言わない。静かに順番を待っているのです。
私はその様子を見ながら、「なんだか品のいい人たちだな」と思いました。
東大受験というと、私は勝手にもっと殺気立った雰囲気を想像していました。受験生も保護者もピリピリしていて、まるで戦場のような空気なのだろうと思っていたのです。
しかし実際にはまったく違いました。
もちろん緊張感はあります。
けれど、その緊張感は誰かにぶつけるものではなく、それぞれが静かに自分の中に抱えているように見えました。
むしろ私自身が必要以上にピリピリしているのではないかと、恥ずかしくなったほどです。
今振り返ると、あれが私にとって最初の『東大の空気』だったのかもしれません。
そうこうしているうちに、東大の門の前までやって来ました。
試験後の待ち合わせ場所を決め、門の前で「行ってらっしゃい!」と娘を送り出しました。
雨の中、東大の門に消えていく娘の後ろ姿は、ドラマの一場面のように感じました。
もっと見送っていたい気もしましたが、周囲は受験生と保護者でいっぱいです。邪魔になってはいけないので、私もその場を離れました。
一日目の試験を終えた娘は、青ざめているように見えました。
なにも話してくれません。とりあえず、私も何も聞かずホテルに帰りました。
2月26日二日目
二日目は雨は止んでいました。昨日のように大学まで行き、見送りました。
二日目の試験を終えた後、娘は、ポツポツ話してくれました。
娘数学がすごく難しかった
母それって一日目のこと?そうだったんだね〜
娘……
母……
娘……
母……
娘(急に道端で立ち止まる)
母……?
娘ポロポロ(涙がこぼれる)
母!!!
娘が突然泣き始めました。声を出さず涙を拭うこともせず、直立不動でポロポロ涙をこぼしています。
さすがに私も状況を理解しました。
そんなに難しかったんだな……。だけど最後まで頑張りきった。それだけで十分じゃないか。
そう思いました。
母東大を受験するだけでもすごいことだよ
娘……
母……
娘……そんなこと言わないでっ!
母!?!?!?
私は本気でそう思っていました。だからそう言ったのです。
東大を受験するだけでも十分すごい。最後まで受け切っただけでも立派だ。
すると娘は、
「そんなこと言わないで!」
と声を荒げました。
本当に驚きました。こんな娘は見たことがありません。
そして、今ここは、都会の道のど真ん中なのです。とりあえず娘の背中をさすり、道の端に移動しました。
私の言葉は、娘には「慰めの言葉」「敗者をいたわる言葉」に聞こえてしまっていたようでした。
娘に何を話しかけても、今は聞こえないのだろう、そう思いました。
私は東京の友人と夕食の約束をしていたので、そちらに向かうことにしました。
娘の様子が心配でしたが、ずっと一緒にいてもよくないと判断しました。
母じゃ、そろそろママはお友だちとご飯食べに行ってくるね
娘……
母……
娘……行かないで
母わかった。行かないよ
娘から行かないでとお願いされたなら、母は行くわけには行きません。
しかし、すぐその後、
娘いいよ、ママ。行っていいよ
母ん?いいの?大丈夫なの?
娘……うん、ホテルに戻って一人でゆっくりするよ
母そっか。……できそう?本当に大丈夫?無理しなくていいよ
娘楽しんできてね
「落ちたな……」と思いました。
それでも、声を上げて泣くのではなく、ただ黙って涙を流している娘は、どこかかっこよく見えました。
よくここまで頑張ったなと心から思いました。
東京大学受験を終えた朝
次の日の朝には、娘はもう普段の娘に戻っていました。
近くのとんかつ屋さんに開店と同時に入り、朝食兼昼食を元気よく食べ、その後、帰宅しました。
娘のトランクは、教科書や問題集でとても重くなっていました。
私はそのトランクを引きずりながら、「本当によく頑張ったな」と思いました。


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